vol.2「平沼孝啓と語らう」 ある日の午後、談話室にて。

ユニオンとの出会い

本日は、あらためてどうぞよろしくお願いします。
それにしても、平沼さんと私たちユニオンとの関わりは、長いですね。

はい。僕が20歳の頃でしたから、25年程になります(笑)。

(笑)。それほどになりますか。きっかけは竹原でしたか?

はい。当時、恐らく部長をされ、後に専務になられた竹原さんです。

その頃、学生だった平沼さんと竹原が、親しくなられたのは何がきっかけだったのですか。

1971年生まれの僕が、18歳になった頃が1989年、世の中は経済バブル絶頂期だったのですね。建設のバブルは少し遅くにズレたこともあって、建築界は猫の手も借りたいくらいの好景気に沸いていました。そして僕は昼じゃなく夜間の大学に通う、当時の言い方をすると苦学生だったものですから、この時代の忙しさから学生にでも、昼に働かせてもらえる設計事務所がありました。昼は事務所、夜は学校と1年生の春から通いだし、ちょうど3年生の夏に通っていた設計事務所に、建築士の試験を受けるよう言われ、受験すると偶然に合格していたのです。当時の多くの設計事務所は、建築士の試験に合格すると事務所から建築士会に入会させられていた時代です。言われるまま入ると、その次は、建築士会のゴルフコンペに出席するようなことを言われて参加しました。そしたら偶然に、竹原さんと同じパーティでプレーしたことから、知り合えました。

それまでゴルフをやっていたのですか?

はい(笑)。小学校の低学年の頃から高校に入るまでプロを目指してサーフィンをしていたのですが、ある海の事故がきっかけでやめてしまった時期に、従兄弟が大学でゴルフをやっていて、たまたま教えてもらうきっかけがあったものですから高校ではじめていました。

え!平沼さんがゴルフをやっていたのを知らなかった。それはどこで?

堺カントリークラブという大阪市内から恐らく一番近いゴルフコースがあるじゃないですか。当時、そこでアルバイトしながら練習をさせてもらっていたんです。最初は学校の休みの日にバスに乗り通っていたくらいですが、高校2年生にもなると暗くなった夜に拾えないボールの回収のアルバイトを、原付に乗り、早朝に毎日、通いはじめていたんです。特に春から夏場は、日の出が早いものですから、玉拾いをしながら、朝のラウンドがはじまる前に毎朝、1~1.5ラウンド程、回れるのです。その朝に集まるアルバイトの人たちの多くは大学や企業のゴルフ部に所属されているような、プロを目指されている方たちが多くて、そんな人たちと毎日、コースでバックティから打つものですから、若いし、勝手に上達しますよね(笑)。恐らく当時の社会人の方たちは、嗜みとして、ゴルフをされている方が多くて、竹原さんはきっとゴルフ経験のある若者に、ちょっと興味をもってくださったのかもしれません。それがちょうど、インテリアデザイナーの巨匠・野井さんがユニオンさんのショールームをつくられた頃で、竹原さんに誘われてあの空間を体験した時は、びっくりしていました。

なるほどね。そしてそう。もともと製品倉庫になっていた場所を東大阪に移した当時に、その場所を何にしようかなってことになり、じゃあショールームにしようということから、野井成正さんに設計をやってもらいました。あれは当時、斬新なデザインやったね。

そうです。その頃はまだまだ一般的には、汚れるとか管理上の問題を多く指摘され、ホワイトキューブが禁じ手の時代でしたから、ショールームで竹原さんとお会いするのが、楽しみでした。

ショールーム以外にも、いろいろ連れ出してもらっていませんでしたか?

はい。それこそユニオンさんが納められる進行中の現場を見せていただけたり、竹中工務店さんや大林組さんという大阪を代表するゼネコンの設計部にも連れ出してくださったり、当時、関西で勢いのあった、坂倉研究所や安井建築設計事務所などにも連れて行ってくださいました。そしてまぁ、夜も、いろんなところに連れて行ってくださったり(笑)。今のサブカル的なスナック街とか、前衛的なすごい場所に、連れて行ってもらっていました。

うんうん。当時の建築界もものすごく勢いがあったし、関西の設計・施工で技術者の方たちも、凄い人が多くおられた。まぁ、夜のお店の方も、すごく変わった店が多かったからね。

その頃にちょうど社長になられた時期だったでしょうか。

今年で27年目だから・・・そうだね。もう社長になっていたね。 でもその頃が頂点で、なんというか、だんだんだんだん・・・景気が毎年のように下がる時期やったね。それにしても、その頃の夜間大学と設計事務所を経てから、イギリスのAAスクールへ留学をされたのですか。

そうですね。当時、留学する頃にはいくつかの現場とプロジェクトを抱えていましたので、その設計事務所に席を残しながら通っていたというのが正しいのかもしれません。ちょうど頻繁に帰阪していたその留学時代に、立野社長に呑ませていただいたことが、はじめてきちんとお話しした機会だったように覚えています。

そうだったね。その頃に若手の方たちにいろんな会合をしてあげたり、いわゆるスポンサーやったね(笑)。

いやいや(笑)。その頃の立野社長を何て表現していいのか戸惑いますが、どうなるのかわからない建築家の卵のような僕たちの取り組みを理解してくださって、若手の建築家の思想みたいなものを応援してくださっていました。新たな発想のアイデアをたくさんいただきました。まぁ、何よりも立野社長が常に、チャレンジされていましたよね。

そうだったね。だけど今の平沼さんは、若い世代を育てるってことをずーっとやってらっしゃる。たいしたことや。なかなかできないことです。

僕たちも若い頃に立野社長のような方に、面倒をみていただいて、育てていただけたおかげです。きっとそんなありがたい経験をさせていただいたことで、僕も、もうそろそろ、何か恩返しのようなことをしておかないといけないなぁと思ったくらいです。

まぁそうだけど、しかしなかなか継続ができんもんね。本業でさえ今の時代はなかなか食べていけない。上の世代の方たちが長寿の時代だから、チャンスがなかなか巡ってこない。国内だけでやっている若い人は大変やと思うよ。活躍されている方は、平沼さんのように海外で仕事をする人が圧倒的に多いもんね。

設計者の役割と、ものづくりへの想い

最近では設計もゼネコンがすることが増えて、設計施工の物件が多くなってきています。それは費用的に安くできるんじゃないかと、施主さんが感じているのではないかと思うんですが、その辺、平沼さんは見ていてどう感じますか?

僕たち設計者の役割というのは、建てる地域の文脈を読み取りながら場所性に根付く、歴史に連なるような建築を、環境や構造、仕上げ材や納まり、機能までも提案することにあります。またクライアントの向こう側にいる利用者のことを考えて空間をつくるのが役割ですし、建物ができあがった後、まちづくりにどのように寄与して、どのような文化となり、その場所で求められて使われ続けていくのかを問われます。同時に、施主側の代理人という立場もあります。建築には素人であるクライアントに代わって、関係法令や各行政と協議を重ねながら申請業務を重ねることで、設計に反映しながら設計図書をつくり、ある一定以上の技術者が揃う施工者のどこがつくっても同じ条件で入札や相見積りなど、施工を兼ねた見積もり合わせ用の図面をつくる仕事でもあります。つまり現在の経済競争がある中でも、資材調達ルートの開拓や良き技術者たちを育みながら努力をされてきた施工者に選定する。工事期間中の仮設計画を含めた工事計画を提示してもらい、設計と現場の品質が相違しないように監理をしていくことがもうひとつの役割です。つまりクライアントに確認と提案を繰り返しながら、施工者と三位一体になりつくりあげるのが建築だと思っています。

そうやね。設計期間中に施主と協議や議論を重ねて図面上に書かれた機能や性能、材質なり、そういった細かいものをきちっと現場がやっているかどうかっていう、やっぱり0を1にした設計者という第三者の目となる「監理」は非常に大事だと思う。不謹慎な話だけど、設計と施工が同じ会社だと、ゼネコン自身も利益は、株主だったり、社員だったり、企業的にも求められているだから、チェック機能が第三者機関にないと、手を抜くところは抜いてしまうもんね。

そうですね。施主は建築をつくる部分において法令的にも素人である分、信頼のおける設計者という代理人は最低限必要なことだと思います。約10年前になるのですが、東京大学の生産技術研究所(生研)のキャンパスに設計をさせてもらった、東京大学くうかん実験棟という建物があるのですが、後に東大の副学長になられた当時の施主、生研所長の前田先生に「施主は本来、設計者と協議してつくりあげた設計の予算をつくるのが最大の仕事。そして施主の最高の仕事は、設計者を選ぶことです。」と教えていただいたことがあります。

いや、そのとおりだと思います。日本の建設業界は特に優秀で、ある一定以上のゼネコンだと、クオリティの高い建築がつくれる。でも設計施工という一括で依頼をしてしまうと、会社側の利益を引いた、現場の実行予算内で納めることのみに左右されてしまって、どんなものでもとにかく出来上がることを前提として動いてしまうからね。

クレームのないことだけを意識してつくっていきますしね。そして施工者がつくりやすいような建築ができあがります。ものづくりはどれもそうですけど、まずは使う人に大きな魅力や憧れ、または大切にしたい!という意識を持ってもらえるようなものをつくらないといけない。今の時代は特に、作り手の儲かる利潤やつくり易さのためだけの建築には、もう誰も見向きしなくなっています。

現代、どこを見ても同じような建物ばかりで、建築への憧れや希望を持つ人たちが減少すると、業界全体としてもよくないですね。先日、香港行った時に感じたのは、やっぱり建築が面白いと思ったし、それが圧倒的な街の魅力だと感じていました。

そうですよね。ひとつひとつの建築は、まちづくりの構成員のようなもの。一時的な利潤や楽さのためだけにつくると、未来の社会や経済から復讐を受けてしまいそうです(笑)。

いやいや(笑)。それはほんと。もっと、ボーンと抜けているとか、右に行くほど突起があるとか、敷地が不均質だから、アシンメトリーなやり方など、日本の建物では見当たらないですよね。

建築は敷地が違うのだから、他の建物と同じであることに、罪悪感のようなのを持ってほしいです。でも投資家はなぜか、ひとつの経済ヴォリュームの事例ができあがると、立地が違うのに利回りという信頼のできない数値の基盤を信用して失敗を繰り返す(笑)。現代だと百貨店がその典型的な業態です。立野社長が言われるように、不均衡であることへの価値をもう少し感じてもらい、不利といえるような条件を優位に解釈して展開されることがオリジナリティを生み出すのだと思います。

そのとおりやね。そしてそういう意味では、もっと若い人にもっと主張してもらうのがいいですね。僕らはそんな目新しい場所に行かないし、住みたくないと。例えばそういう世代のニーズが主流になると、やっぱりあらゆるものに、チャレンジしていかないといけないもんね。

既存のマーケットを追いかけるリサーチよりも、マーケットを開拓する勇気をもつ方がワクワクするし、開発をされる方たちの楽しさとか、つくる人たちの意欲が伝わるような建築や街になっていってほしいですね。

ほんとほんと。良き楽しさも悪きつまらなさも伝わります。建物の予算はある程度、経済的な観点から定められることは、やむを得ないと思います。でもその制約の中で、立てる側の意思や意欲、情熱のような「想い」を表現してもらいたいですね。逆に言うと私たちメーカーに要望してもらう。それがメーカーの技術を保つことにつながります。そうしないと、どんどん技術力が低下していく。今後、先進的な建物を建てようとしたときにつくれなくなるんじゃないかな。だから特に若い人には、こだわりの中でどこかのメーカーへ頼りながら、自分を主張する、あるいは「ここを見てくれ!」というものをつくって欲しいなと思います。

そうですね。やっぱり僕たち設計者は、ものづくりが大好きで、建築を、設計をやっている根底があるのです。いわゆる既製品の寄せ集めじゃなくて、できるだけ空間の質に応じた表現をオリジナルでつくりたい。でもそのような思考ばかりが先行すると問題になるのが、やっぱりイニシャルコストです。時間の制約がある中で、今までの使われ方以外の提案をすると、事故や劣化が心配になり、検証することが必須になっていきます。

うんうん、そうね。

新たな試みには、何でも裏づけのできる検証を求められる時代です。このバランスの中で「いや、それでも挑みたい!」と心底思い続けるものを、製作者へ相談していく。この製作者へ想いを引き継げば、一緒になって挑戦ができる。僕なんかはやっぱり、文化的に深い理解のある、立野社長みたいな方を頼りに、挑戦を続けています。とても励みになります(笑)。

(笑)・・・ははは。

そういう想いがある反面、クライアントも結果や成果が分からない状態で依頼をしているので、製作者の方に強いお願いすると、迷惑をかけてしまうこともあります。

そうだったね。その頃に若手の方たちにいろんな会合をしてあげたり、いわゆるスポンサーやったね(笑)。

いやいや(笑)。その頃の立野社長を何て表現していいのか戸惑いますが、どうなるのかわからない建築家の卵のような僕たちの取り組みを理解してくださって、若手の建築家の思想みたいなものを応援してくださっていました。新たな発想のアイデアをたくさんいただきました。まぁ、何よりも立野社長が常に、チャレンジされていましたよね。

うんうん、そうだなぁ。

でもこの経験をさせてもらい、僕たちももう一山超えていくと、いいものをつくっていけるんだろうな、と信じています(笑)。

アハハ(笑)。期待しているよ。

ディテールから見る、日本の名建築

村野藤吾さんの新高輪プリンス(グランドプリンスホテル新高輪)「飛天の間」の天井は本当に素晴らしい天井です。よくつくったなぁと今でも思いますが、あの製作に挑まれたのが吉川さんという凄い技術を持つ方で、村野さんの装飾的な設計の取り組みは、全て吉川さんが実現化されていました。そして当時、村野さんが私たちに求めてきたドアハンドルも、この吉川さんが取り組まれていた神業のようなものを事例に(笑)、それはもう真鍮をアクリルの中に埋めるといった、非常に難しい要望でした。その製品に挑むことによって、他にできない技術を身につけ、さらに色んなことにまた挑戦できる機会になったんですね。今の保守的なメーカーの姿勢にも責任があるのですが、そういうことを求めてくる建築家がほんとに少なくなっています。

社会が建築に持つ憧れから来る機能に、ありきたりのものから選ぶ潮流が根強くなりましたね。それはきっと物が溢れている時代になった今、完成されたものとものを比較して選ぶようになり、「創造する勘」が低下してきたからだと思います。

そう。今はもう、そういうところにはこだわらない。もちろん、全体の建物を規制のある範囲で納めるという点では素晴らしいと思いますけどね。

でも最近ものが売れなくなってきていると聞きます。こんなに選べる程の製品が多くなってきているのに、欲しいものがなくなっていたり、憧れのようなものが少なくなってきているように感じています。一般的なマーケティングで量的なターゲットを獲得するために、普遍的という美名のような代弁の言葉に描かれた、中流の意識しない機能を持つ製品ばかりをつくってきたため、欲しい!と言える程の製品が少なくなっているように感じています。だから僕は立野社長のような意欲的な精神をもたれる方を、全く悲観的に感じなくて、逆に量や大きさよりも、質を求められる時代がまた、正しく戻ってきているように感じています。先月ですが、久しぶりに「名木造建築」といわれる奈良ホテルに伺ってきたのですね。ある機会をいただいて、建物の裏側を回ってひととおり見せてもらえたのですが、結局、この奈良ホテルにおける辰野金吾さんのつくり方は、大振りな方で、新高輪のようなディテールの作り方と違ったものでした。

あぁ、そうだね。

約100年も存在してきたのは、立地に恵まれていたことを含めて幸運なことですが、ディテールが少ない建築をつくると基礎部分の腐食している木部の取り換え、改修もまた、甘い張り付けをするんですよね。もっと歴史に連なるような継続されている建築に敬意をもって、まじめに工夫した改修をすれば良かったのにと思いました。

甘いね。

名建築をもしつくれたとして、金物ひとつひとつのディテールまでもまじめにつくっておくと、その建築が時代に連なって残り、次の世代が上手くそのバトンを受け取ってくれるんじゃないかと。坂倉準三さんや村野藤吾さんのディテールとか、部材の構成を見るとさすがに感心させられます。「名建築」といわれるものは、お金が少々かかっても、細かいディテールにこだわっているから長い目で見た時にいい形で残していけるんじゃないかなと感じます。

現代はインバウンドを促したように、海外から多くの人たちが日本の建築を見に来られるようになっています。いつの時代でも輸出や輸入など物質を動かせないものだから、建築空間を体験したいと訪れる。そういう意味でも、もっと良いものを建てておかないと、日本に建築を見に来る人たちがいなくなるよ。

今は本当にそう感じています。僕たちが学生の頃は、この間のインタビューで収録をされた重松さんの師匠、OMAのレム・コールハース率いるオランダの建築潮流に大きく影響された時代にあたります。それまでの村野さんたちにあった日本の現代建築の装飾的・工芸的な細かいディテールにあまりこだわらず、それこそもっとオランダを中心とした欧米の建築のように大雑把でいいんじゃないかって言われていました。でも今、日本の歴史や文化を思い返すと、せっかく日本人に生まれて日本で取り組んでいるんだから、もうちょっと日本人らしい繊細さを突き詰めていってもいいんじゃないかと思うようになりました。

うん、そうやね。

長く使うことで分かる、本物の良さ

「ドアハンドル」は、人が建築の中で、いちばん触れるところですね。

一番に触っていただくところでしょうね。

ちょっとした微妙な調整で、柔らかかったり硬かったり、冷たかったり温かかったり。あらためて考え直すと、素材とのコンタクトがある分、建築の質が高まっているような気がしています。

そうですね。ハンドルはそれほど費用がかかるものじゃない。平沼さんが言うように、建築の中で人が一番多く触れる。視覚的な部分以外にでも、建築の質のような個性がダイレクトに伝わるところだと思うんですね。最近は、エントランスのメイン扉が自動ドアになってきて、あれは味気ないなぁ。アメリカで普及をした回転ドアも、金属のバーを押すだけではなく、寒々しい素材で一遍通りにつくらないで、趣を変えることや工夫を施してほしいなぁと思います。

なるほど。でも建物のシールドが透明なガラスに変わっていく一方で、大きくて古い鋳鉄や木製の扉を残していこうとする動きもありますね。得にヨーロッパでは、普及し始めていて、ヒンジや回転軸の機構金物に自動制御がついたものが存在しています。見た目は古い教会の大きな扉なんだけど、オートヒンジの補助機構が仕込まれていて、ちょっとだけ押すと、アレレ~とスーッと開く(笑)。そういうものに、僕は驚きを隠せません。ハッとさせられます。

(笑)ほんとね。アッと思わせられます。現代でも日本と欧州の扉の違いには、自動ドアも引き継いでいて、日本の場合だと引き戸の歴史からスライドするけど、欧州だと開き戸のように自動扉も開く機構よね。だからドアハンドルの「場」も残してあることが多い訳ですね。だから、まだ趣があるのかも知れませんね。

なるほど。引き戸という、障子や襖、掃き出し窓のような生活様式から引き継いだ日本の戸の文化を、エンジンをつけて自動にするだけの性能から、味気なさを感じてしまうのですね。自らの手で掘込み金物を引いて入る際の音や力の入れ加減が引き戸の良さを引き出していたのに、さあ入るぞ!という意欲を持てないというか。

利便性を優先させた価値のおかげで、便利にはなってきたけど、趣を感じられず、動作から音もエネルギーも発生しない。そして金物もFRPに塗装で金物に似せたものではなく、本物を使ってほしいです。平沼さんは良くご存知だと思うけど、本物の良さは、やっぱり出てきますね。長く使えば長く使うほど素材の質の良さが際立ってきます。鋳鉄のダイキャストやアルミの削りだしの鈍さ、真鍮の良さのようにね。

冒頭に話してくださった、つくり手がつくりやすいつくり方でつくってしまうために、結果、味気ないものが溢れていく。仮設のトイレのように一時的な利用に製作の合理性を兼ね備えるのはいいけど、建築の寿命は人の生涯よりも長く生きることもあるものですから、素材の特性を知り、使いつづけられる機能としての大切さを考えて選択をしていきたいです。

4年ほど前にイタリアで小さな金物制作の工場を回っていました。さすがにすごいなあと思ったのは、何百年前の金型をずっと残していてアルミを抜いても、すぐに表面加工をしない。ある程度の期間、寝かせたものに加工を施して、何百年と品質は変わらないようなところまでも考える。日本だと、できたものをすぐにぽんぽんと商品化してしまう(笑)。イタリアは職人が都市や建築を支えた街だから当然でしょうけど、深い精神力を兼ねたすごい資産を持っていると思います。

一昨年、ミラノのレストランで立野社長と食事をした時、同じような話題で議論しましたね(笑)。「ものづくりの精神性はイタリア人と同じように、日本人にも存在するのに、資産を引き継ぐ深さが足りてない!」「欧州は古い建物自体を継承し、日本は伊勢神宮で代表されるように、式年遷宮が20年に一度、次の世代へ技術継承が行われているのに、どうしてなんだ!」なんて。このあと、立野社長は仕事でフランスに入り確認をしてくる、僕はレクチャーでクロアチアへ行くから調査してきます!のようなことを話していましたね。結局、欧州の場合、素材を成型して形にすると、その物が1000年持つかもしれないと考えながら、それくらいのタイムスパンを意識して現代でも物をつくる深い精神力があることを知りました。

そうやったね。欧州では建物と同じように、金物も歴史を感じさせる。決して一定の色で留まることなどなく、経年変化をして「変わること」に建物の深さと進化を楽しめる。 ミラノの続きじゃないけど、今日は一番それを平沼さんと話したかった(笑)。

アハハ(笑)。これはもう続きですね。僕は特に素材の色など、風合いが変化しないものには、興味を示すことがなくなっていきました。できれば、変わっていって欲しいと思っています。ちょうどその頃に立野社長のお誘いでつくらせてもらっていた甥にあたる寺村さんの建築(「木の歯科 2014年竣工」)でも、空間全体を経年変化の感じることができる木で施しています。こういう素材は例えば、特に外部の屋根だとスレートや銅版を使えばいいとか、古くて価値の高い材料の方が多いのですが、現代では特殊になればなるほど費用が多くかかるものですから、叶わないときもある。ただ、ドアハンドルのような金物であればそれほど量的な大きな費用を伴わないので叶いますね。あれ以来僕は、「建築が生きてきた記憶」みたいなものを要所に残しておきたいと思うようになりました。

そうだったのね。それじゃ次は、中国かインドかな。アメリカの出張を合わせてやりましょう。

自ら求めていくことで、得られるもの

ロンドンに留学をされて建築に対する考え方など、どんな影響を受けられましたか?

現地に行って、ものすごく影響を受けました。それまでの価値観や概念、建築へのアプローチがまるで変わりました。アイロニー的に表現すると、日本の大学教育で示されることは、建設業界そのままの「建設」を中心に教わります。創造的な思考性を優先するよりも、実務的で効率的な処理の方法に重点を置き、思想や哲学よりも業務を教わります。つまり、つくり方を重点に教わる日本に対して、使い方を重点に置くつくり方を、イギリスで学びました。もちろん通っていた学校が特殊だったので、イギリスやヨーロッパ全体がそうだということではありませんが、リベラルでした。建築のプロセスを教えてくれるというか、そのプロセスを考える機会を与えてくれる。そのプロセスで示すことは、建築をつくることを目標にするのではなくて、つくられた先にどんな空間が広がり、どんな人たちがどのように使っていくのかを求められます。つくることが技術者の使命という日本の教育のあり方との違いに、とても感銘を受けました。例えば、建築をひとつつくるのであれば、周辺のリサーチをはじめ、ひとまず十数年先、その地域環境にどんな影響を与え、どんな風景に変えていくのか、地区計画のようなプログラムから考えてボリュームを提案します。そのなかでどういったものを抽出して、その建築のボリュームをスタディしながら考えます。決して日本でいう経済ボリュームと言われるお金で決まる理屈じゃなくて(笑)、将来的な地域の発展のあり方や、人に影響を与える周辺の環境の計画で決めていくことを知りました。

なるほどね。その時期の経済的な予算だけで決定される建築をつくるよりも、将来的に生み出す資産を見出すような時代をつくるような計画にした方が、いい建築というのか大切な価値が生み出せるものなのですね。学校の教育が逆に実践的というのか、建築家を育てる教育のあり方の違いの大きさに驚きました。確かに安藤忠雄さんも、有名な世界を回られた話に代表されるように、文化の違いやまちのつくり方など、建築単体だけではない、大きな影響や体験をもっておられるもんね。

僕が通った時代の厳しさが違いすぎて、恐れ多くて比較になんてなりませんが、安藤さんのような方が大阪にいらして、僕たち設計者にとっては、大きな励みになっています。なによりも、あれほどの凄い建築家は、もう今までも、これからも出てこないんじゃないかと感じています。

そうだね。あの人は元々、大工さんが家を建てるのを見て、「これはおもろい」と。
単純なことからなんだよね。

そう!複雑なことをシンプルに捉える力が、本当にすごいと思います。

うん、うん。

立野社長は生涯かけてユニオンという金物メーカーを率いられていますが、やっぱり、その根底にあるのは、ものづくりが好きだからですか?

そうやね。ものづくりもそうだし、デザインも好きやね。
でもまぁ、たいしたことではないですよ。

いや、いや。これまでずっと取り組まれたことに、敬服いたします。そして僕はこれまで、ユニオンさんを通して立野社長をみてきたのですが、最近では、立野社長を通じた社会がみえるようになりました。会長を務められている、日本建築材料協会やロータリー、ユニオン造形文化財団等での取り組みから多くの方たちが知る立野社長を通じた建築界というのを知る機会を多くいただいています。
今後も、まだまだ海外にも進出されるのですか?

行きたいですね。
ちょうどさっきの話から、またイタリアに行きたいなぁって考えてたんやけどね(笑)。

(笑)。世界中のものづくりの現場を回られていて、その地域に存在する自然環境や歴史遺産、地域や街づくり、そして建築や空間を見られている中で、これから建築を目指される若い人たちが経験しておくべきことはなんだと思われますか?

やっぱりそれは、「心構え」でしょうね。うちの社員にも、海外への渡航経験を兼ねて、製作工場やメーカーを訪ねてもらっています。「レベルの違いから何も得るものもありませんでした!やっぱりうちが一番ですよ、社長!」か「すごかった!」と言って帰ってくるか。やっぱりそこの違いっていうのはものすごくある。『求めていけば、何かそれに応えるものがある』と思いますね。

手前味噌になるかも知れませんが、私たちのハンドルのデザインや材質、製法を見ていると、世界一だな、と僕も思いますが、製造に歴史があるところには、今も続く歴史があるなりに、正しくて美しい原理が存在している。「心構え」があるとないとでは、見え方が全く変わりますね。

うん、うん、なるほどです。
想いをもって意欲的に行くと、その情熱からいろんなものが見えて、持って帰って来られる。

僕はそう思いますね。平沼さんがイギリス行かれた時もね、相当な想いを持たれて、ご自身が求められていくことで、大きなものを習得されていたのではないかと先ほどあらためて感じました。社員に、ユニオンと比較してどうでしたか?と聞くと、うちの方がよかったと、それまでの慣れ親しんだ価値で答えるのかも知れませんが、やっぱり知的好奇心を持ち、それなりの想いでいくと多角的な視野が広がります。平沼さんは、知恵や知識を身につけていこうとする姿勢を常に備えていたからこそ、身についたものだと思います。海外にただ行った人間と、自分から求めて行った人間とは全然違う。世界で活躍するテニスプレイヤーの錦織圭だって、自ら求めてあれだけ成長できた。自ら求めて海外へと飛び出す学生が減少しているように聞くけど、成長して帰ってくるような人間になって欲しいと期待します。平沼さんの若い頃のようにね(笑)。

いや、当時はどうだったか、もう覚えていませんが(笑)、そうあり続けたいです。

構造×デザイン。次の世代へのイノベイティブな挑戦

ハンドルだって、建築だって、一から創造できる人は極わずかだと最近つくづく思います。例えば鍵の場合だと、日本は江戸時代ごろから障子や襖戸が庶民の住宅に入り、それでも引き違い戸が一般的だったから、心張り棒と言われるつっかえ棒で戸締りをしていた程度。もしくは、現在の伊勢神宮でも使用されているような蔵のようなものに、閂のような錠前や雨戸などに用いられる落とし錠があったくらい。今のシリンダーのような錠前と鍵は、ルイ16世のいたフランスから発展して、アメリカで20世紀初頭に広く使われるようになったものを、美和ロックさんが代表する方たちが大変良く勉強をされて、イノベーションしていかれた。ハンドルも同じく元来、日本には存在しなかったもの。錠前と違ってハンドル専門でやった会社が世界になかった。それを私たちのような者が、長くつくり続ける中で、イノベーションをし続けていった。そのおかげで、現在、3,000種類近くのハンドルだけ持っているっていうのは、うちが世界一(笑)。

それはすごい話です。先ほどの話に戻りますが、知的好奇心を旺盛にもたれた結果、いろんな工夫を生みだし、あらたな発見から発達となる。素晴らしいですね。

歴史を生かして自分たちなりのオリジナリティにしていかなければ、いつまでたっても批判とモノマネしか生み出せないもんね。

現代、ドアハンドルの単体メーカーはあまり存在していないですか?

世界中見てもないですね。

僕はユニオンさんの存在から、あたりまえにあるものだと思っていました。
ないんだ・・・(笑)。

だからうちの会社が持つ製品は、世界から見ても喜ばれる(笑)。

私たちのような会社でもいいし、世界へ出ていく若い人が増えてもらわんといけませんね。交通便もよくなりましたし、日本はもう狭いですよね。これからの建築はどうなるんでしょうね。

いい意味でのイノベイティブな挑戦は諦めずに努力をし続けていった方がいいと思います。
同時に、歴史的な建築を保存して次の世代に引き渡していく。これも大切な使命ですね。

うん、うん。そうですね。

現代は、今までのように一極でいいとする回答では良くなくて、よく言われているように多極化して多様性を生み出していくこと。つまり、一つ一つの正しくて美しい、共有できる回答を、僕たちが生み出していかなくちゃいけない世代で、野球で言うと中継ぎ投手のようです。

アハハ(笑)、なるほど。

いい形で次の世代に繋いでいけるのかどうかがですね。

だけど平沼さんはまだまだ若い。40代半ばくらいでしょ?

まぁ、そうなんですけどね。
抑えの世代がダメで、行ける隙があれば自分が抑えまでいくっていうのもありますよ(笑)。

(笑)。そうした方がいいね。何でも同じだと思うけど、日本の建築の良さを知って、海外という違う文化や文明の良さをうまく解釈して取り入れながらやっていくことが、大切やね。思想を保ちそれを守り発展させる人が結果、文明のように歴史に連なる。それをやって欲しいですね。

はい、そうですね。

日本の建築は、ものすごく良いところがある。日本の気候や風土のような自然の観点から理解しても、木造建築の方がいい部分が多い。しかし、地震や台風などの災害には影響を受けやすい。それの解決法が、これからの建築を発展させる可能性を高めていきますね。

さすがに立野社長は多くの建築を見ていらっしゃって、第一線の建築家の方たちと交流をされ続けてこられたものですから、もう建築家のようです(笑)。

いやいや、私は言っているだけで、建てられた建築を見ると良いか悪いか程度のことがわかるだけですが、実際に計画する段階では、何もできません。でも例えば木造の材質的な利点を応用しながら地殻変動にも応じた建築を求めた場合、やっぱり接合金物をもっと研究せなあかんでしょうね。

現在の主流な木構法は古く、日本で古くから発達してきた伝統工法を簡略化し発達をしてきたもので、現代は50年程前に生み出された在来工法である木造軸組構法を基軸に考えて、耐力壁を備えた木造枠組構法を主流としています。最近は、密集した地域に大きな災害をもたらせ、単体の建築だけではない地震での被害が大きいとされていますから、昭和時代の後期からはじまった金物で地震力への強度を補強しなきゃいけない。でも実際の補強金物は、その存在が大きくて、木造という本来、棟梁が宮大工のような職人が構造的に美しい構法でつくり続けてきたのに、大壁に代表されるように仕舞いを隠してしまう。もしこの補強金物を主要な金物としてちゃんと表現していくことができれば、日本の木造建築にも、もっとスポットライトが照らされるような気がしています。

そうやね。現在の学校や公共施設の耐震改修のように、化け物のような「筋交い」ができてきてね。補強を目的にばかりしていると、けったいなところに金物がついている事例を目にします。

ほんと化け物ですよね(笑)。安全を確保するのは、もちろん大切です。
構造をきちんとデザインして、空間の質を高めていくことまでも、法案にしてもらえるともっと皆さんが真剣に考えていくのですが、完成した建物には見えない、机上の数値でしか、現在は耐震基準を設けていないことを残念に思います。お金と一緒で安心さに限りはないですが、価値を生む意識を変える補強に挑戦して欲しいです。

考えなあかんね。

うん、恐らくユニオンさんのようなハンドルという、人が手にする繊細な感度をつくってこられたメーカーさんが、この補強金物を製作されていくと変わります。

実は調べてもらったのですよ、耐震強度(笑)。この建物も50年になりますから現行の耐震基準に近づける方法をもし、うちで実験的にやれるのだったら、見えても恥ずかしくないデザイン性の高い機能を伴った金物で耐震になるようなものを検討しはじめていました。
これに挑戦したら、ちょっと社員のやる気が高まりはじめるのかなと、そんな気がしましたけどね。

社員さんの士気も高まるだろうし、これからは金物メーカーに求められていく時代になっていくと思います。
例えば、ひとつの構造金物を別注でつくる際に、工事種別に分けられる工種の職人に担っていただくのかを決めることも設計者が図面で指定しますよね。鍛冶屋さんにつくってもらうと無骨なもので荒々しいものや、金物屋さんにつくってもらうと繊細で美しい仕上がりを意図します。手すりやスチールのサッシも同じですよね。これらのスチール等の金属素材だとこのような種別になるけど、木製だと少し変わってきます。構造材を扱う大工さんのような方にお願いするのか、装飾を伴うランマ屋さん、そして建具や家具屋さんなど、工場の規模や製造機械の精度よりも、人の力に頼ることになる。もちろん、1点、1点、オートクチュールで製造するばかりでなくても、ある程度のバリエーションにまとめて展開できると思うのです。ユニオンさんのような技術を保ち続けているメーカーなら、木質の表現はそれほど難しくない。

そうね、木造の建築でね!

はい。多くなってきたと思いますし、今後も求められることが多くなってくると思います。小さな建築ばかりでなくても、国立競技場のような大きなスケールのものも、素材の長さや太さに限りがあります。基材の許容する製造や運搬の理由だけでは担えない、地震力や風圧力などの水平応力をどう分散させるかっていう時に、やっぱり金物が必要ですね。

なるほど。見ていてもね、違和感のないデザインと一体化しているような気がします。

基材と金物。相関関係にあり、どちらを補うというよりも、どちらからも補うようなデザインの関係性をつくっていきたいですね。

そういうものを、私たちは考えんといかんよね。

近年、日本の各地で起こる地震の影響から、建物の重量を軽減させないといけなくなりました。重量の二乗に比例して、地震力の影響を受けやすくなるものですから、これまでのハリボテ建築をつくらず、構造をデザインしていこうということが主流となります。外壁もできるだけ軽量化する。これまでのタイルや石などの豪華な仕上げは、建築への負担が大きくなる。この時に、構造設計者ばかりに構造計算で出た数値を保つ金物を設計してもらうと、違和感のある物質がくっついてきます(笑)。いや、それはそうなのです。職能が違いますから、もっと意匠設計者が構造を理解し、立野社長のような方と一緒にやっていくと、その大きさであったり、機能や持たせ方、仕組みをつくりあげる可能性が広がります。

そうやね。構造材についても、それは空間要素を決定づける、ひとつの意匠になっている。

そういうことです。

それが邪魔しないということやね。
そして、それが安心を保つ上で、大切なことになっていくと思うよね。

そうですね。だからユニオンさんのような金物メーカーが、建築界のために一緒に汗かいてもらう・・(笑)。いい方向に行けると思うんです。

世界をマーケットに、視野を広く持つことの重要性

平沼さんがオーガナイザーという役割をやっておられる「U-35(アンダー35)」。これはどういう想いではじめられたのですか。

第1回目の開催が2010年ですからその前年の2009年頃までに、だんだんとSDや建築文化などの雑誌や本などが休刊・廃刊になり、建築メディアがなくなりはじめていました。僕の孤立?(笑)のような独立が1999年。処女作の時間の家が完成したのが、2000年です。つまり10年後という自分たちよりも一世代下の建築家の人たちが建築をつくっても、その作品を発表する場が少なくなってきたということを言われ始めていました。そして今、大変な活躍をされている、妹島さん西沢さんのSANAAや隈さん、坂さんなど、日本の建築家の第四世代と言われる方たちが、2008年頃には、海外で高く評価をされはじめた。それまでの丹下さんや坂倉さんなどの第一世代、磯崎さんや槇さん、谷口さんの第二世代、安藤さんや伊東さんなどの第三世代と合わせて、日本の建築家の多くが世界に排出され、評価をされておられました。僕たちの世代は多く留学した世代で、海外で日本の建築家の評価が高いことを知ります。ちょっと評価が高すぎるんじゃないかと(笑)、欧州の建築エディターや批評家にその活躍できる理由を聞いてみたのですね。そしたらいろんな評価があったのですが、最終的に皆さん、日本人は「独立が早いのが特徴だ。」と口を揃えて言うのです。

あぁ、ヨーロッパに比べるとそうだね。

建築の評価基準は今もまだそうですが、ヨーロッパが中心です。もうそろそろ、これぞアジアだと日本の建築が示す時期でもありますが至りません。
そしてその欧州では、平均して皆さん40代で独立されることが多いようです。その理由を聞くと解釈がおもしろくて、欧州の建築の歴史は、1000年建築を残していくためにつくる土壌があるのに対して、日本の建築の原点は伊勢神宮に示されるように、20年に一度、式年遷宮でつくり変え、技術を継承し残してきた。つまり現在、日本では良い言葉の意味として捉えられていない「スクラップアンドビルド」を繰り返してきた結果、技術の発展を生み続け、人を育てていくという歴史がある。僕たちの世代のように20代や30代前半で独立をしても、仕事なんてないに等しいのに、旗を上げ、つくられた社会の仕組みから孤立をすることで、小さな住宅であったり改修工事であったり、そういう設計を積み重ねていくことで、つくるための訓練を早くからしていると言われます。つまり早い時期に独立し、小さな建築でもあらたな価値を生むような建築をつくり、建築メディアを通じた発表をすることで、上の世代で活躍をされる方たちが存在を知りまた期待を寄せる。

現在は、フランスのルーブル美術館の新館(設計:SANAA)にしても、ニューヨークのWTCの建て替え(設計:槇文彦)にしても、世界最大級のオペラハウスが台湾につくられても(設計:伊東豊雄)、世界の主要な建物は、日本人が多く手掛けている。つまり僕たち下の世代がわかりはじめていることは、この道を上の世代の方がつくってくださっていて、それでも「獣道」のような険しい道ですが、この道を進めば、世界に届くような時代になってきた。でもその獣道を行くためには、組織設計事務所やゼネコンの設計部の雇われではなくて、日常的に社会的な責任を持ち続けるような基礎体力を早くから養っておかなければいけない。でも国内の建築メディアの衰退から示されることは、その重要な発表をする機会を失うと、なんとなくモチベーションを保つような目標を失います。もちろん発表するためにつくっている訳ではありませんが、これぞ!という発表の市場がなくなると、だんだんと何かにつながる希望が絶たれはじめる。そういうことが重なりはじめたために、組織設計事務所やゼネコンの設計部に勤めていても、独立を考える人たちがぐっと少なくなったように感じています。まぁ30代の半ばを過ぎると、一般的に社会的な責任を担わなくてはならなくて、実生活や家族を養う時期に、現代では重なってしまうのでしょうね。

そうやね。年齢と比例して家族をもち経済的な余裕がないと、安定という保守的な考えが高まり、独立への意欲や、挑戦ができる土壌、本来の目標にある人生を諦めてしまいますね。

僕は当時、そんなことを1㍉たりとも考えませんでしたし自分のことには楽観的すぎて、人に振られたサイコロのスゴロクのように進んだ結果で、生活のことなんて何も考えていませんでしたが(笑)、当時の様子と海外からの意見を伺いながら、それじゃその市場じゃないけど、建築家への登竜門のようなリアルな展覧会で発表する場をつくりたくなりました。もちろん目的のひとつは、活躍されている建築家にその存在を示してもらうことですから、まずは僕と同世代の藤本壮介さんや石上純也さん、五十嵐太郎さんなど、出展者である一世代上の建築家や建築評論家に毎回、見てもらう機会をつくり、当時から建築界で最も活躍されていた伊東豊雄さんに相談に行き、「それは良いことだから一緒にやりましょう。」と応援の言葉をいただき、出展者を公募で募りながら開催が今も継続しています。

なるほどねぇ。視野が広くて多角的にみられているから趣旨に共感を生み続けるのですね。
建築材料協会という団体があってね、昔はサッシ、ガラス、セメント屋さんなど、建築を構成する材料を扱うほとんどの企業が集まりできた団体で、当時は大きな所帯でした。そして現在は、細分化したそれぞれが団体をつくられ出ていかれて、残された職種の方たちで構成している小さな団体です。メーカーとしては私たちの金物メーカーや、仕上げの部分を担われる、割とこぢんまりとしたメーカーが多いのです。だから・・・あまり海外に目を向けることがありません。でも私はほんとにそれでいいのかな?と思っています。国内での今の需要しか見ていないと、将来、存続が難しくなるだろうし、人口減少などから求められる数が減っていくことがわかっているから、彼らをいかにして、海外へ目を向けさせるか、できればアライアンスみたいな団体を組んでね。ひとりひとりだと難しい側面も多いだろうから、そういうチームで海外に出て行く。私たちが持っている技術を今、世界で活かす時期だと感じていました。そしたら今、平沼さんが話してくれたプロセスと似たようなことがあると感じています、ありがとう。

いえ、とんでもありません。まだまだこのU-35も今年であっという間に開催8年目。10年までは継続を目標にやってみないと、僕に経験がなさ過ぎて、これからの確かな展開が見出せません(笑)。

継続させていることが凄いし、大きな信頼を生み出していますね。
それにしても、今の若い建築家も、海外へ出て行かなかったら仕事なんて、なかなかないんじゃないですか。平沼さんもほとんど大阪にはいませんよね。

うん、ないない。国内にはなーんにもないです(笑)。
うちの事務所も、もう7割は海外からの依頼ですし、コンペだと8割は外国のものです。それでもうちにくるような依頼は、世界的な建築家の方たちが取り組まれているようなビックプロジェクトじゃなくて、小さな改修から建築単体でも予算が底辺で限られた、規模が小さなものです。依頼と言うのか相談からはじまるのがほとんどですし、先ほどの話しでグローバル化がもたらした恩恵があるとするのなら、人種や国には関係なくて、日本人はきちんとつくる、といった印象から相談がありますね。
事務所はユニオンさんから2ブロック南へ下ったところにありますから(笑)、大阪には月に1/3は居ています。残りの1/3は東京や地方などの国内。あとの1/3は海外へ出かけています。

それじゃ仕事的には、大阪におられる理由があまりないですか(笑)。

はい!(笑)。大阪には心斎橋の地域計画に絡んだプロジェクトくらいだから1件しかありませんし、京都や兵庫、和歌山などの関西地区でみても3件程度しかなくてとっても少ないです。東京や海外の仕事をして大阪で使っているイメージですね、ほとんど出稼ぎ(笑)。でも建築の場合は、ファッションやプロダクト、グラフィックデザインのように輸送できるものではありませんから、結局、建築は動かせなくて、その計画地や工事現場に行かなくてはなりません。だから自分たちが動かないといけない。何処にいても同じなのですね(笑)。
シンクタンクになるような事務所は、自分が良く知る街で、一般的で日常的な暮らしの価値がわかるようなのがいいなぁと思っています。普段、設計者は数年先に実際に建つことを強く予想して設計をするものですから、本当に建っていることを強く強く望むのです。言い過ぎると、つまり自分の中では完成したのか計画提案で終わったのか見失うこともある(笑)。だから生活というリアリティを日常で感じる場所がいいのですね。僕は大阪生まれの大阪、京都、東京育ち。でも大学は大阪とロンドンで学び、最初に依頼をもらったのが、その大阪だった。それが連なり現在も事務所があるのですが、僕が大阪という場所に縁がなかったら事務所をもうとっくに移していただろうし、立野社長のように信じる先輩のような、厳しくても励みをくださる人がいなかったら大阪ではなかったように感じています。

いやいや、私では何の支えにもなっていないよ(笑)。

(笑)。とんでもありません。結局のところ僕は、人だと思っているんです。
多くの人たちに支えられ、相当、厳しくて怖くても(笑)、ずっと気にかけてくれる方がいる場所なのかどうかが、結局、継続のできる大きな理由になります。

それとこれは勝手な想いの支えのようですが(笑)、その地域に世界で活躍をされているような建築家が、おられたりすると、大きな支えになります。例えば別の場所で生まれ育ち、その場所で設計をしていても、僕のような意思が弱いタイプだと、長い設計活動の中でだんだんと目標を諦めてしまうような気がします。世界だなんていえない。普通にある普通の仕事をして普通の工務店か街にある設計事務所で社会的なんて考えることなく、個人、家族が食べることだけをやっていそうです。大阪は、現代の世界的建築家、安藤さんをはじめ、時代を遡っても、村野藤吾さんや渡辺節さん、生まれや関わりだけでいっても丹下健三さんや辰野金吾さんなどがおられます。そういう方たちが居るという励みと、何よりもそういう方たちを育てられた気質が、この大阪に根付いているのかもしれません。

なるほど、関西の中で大阪は、兵庫や和歌山と違って多くの建築家を輩出されていますね。
京都は・・・清家清さん。世界的な、と称される建築家は、確かに他は思い出せないね。

今は、メディアと経済、政治と国政の一極集中から大学教育機関が集中して、地方で生まれ育つ学生が、東京の大学に通うことがひとつの義務のようになっています。関西の学生でも優秀な学生は、東京の企業に就職をしますね。だから今後は当分、東京に一極した建築家の輩出率が増えるのだと思います・・・が、でもまぁ、安藤さんのような凄い人が出るのは、分母の多さでもないので何ともいえません(笑)。

なるほどね。
それにしても昔、建築の設計者は、全国で本当にたくさんの方たちがおられたでしょ。でも今は半分以下?もっと減っていますか。

実際に設計する方たちは、どれくらいの数がいるのかわかりませんが、近年では、手書き図面からCAD化に移行して、書き手の意識も変わりましたね。そしてハコモノ行政という言葉で流行した公共建築の低下と、姉歯事件といわれる社会的に大きな偽装があったので、建築士法の大幅な改善がなされて、良い意味で淘汰されたのだと思います。それでも建築士という有資格者の数は、現在でも100万人を超えているように聞いています。その中で申請チェックや行政の機関で働く方やハウスメーカーで抱える営業や総務の方など、有資格者でも設計に関わる方が減ってきていますね。実際に設計をされているのは、3%くらいになったことを聞きますから3万人程度。20年には、10万人程の方がいたとの推移を、先日、日本建築事務所協会の会長、佐野さんから雑談でお聞きしていましたから、実際には昔と比べると3割くらいになったようです。

なるほど。その中でも、日本の建築家として聞くと、それはもう、100人ほどですか?

先ほど立野社長に触れていただいた、建築レクチャーシリーズの開催が今年で、50回を迎えます。そのゲストで来てくださった建築家を数えると、若手を入れても100人が限界でしょうかね。

なるほどなぁ。私たちの建材業界も、恐らく10年~20年後には、同じような減少傾向を辿ります。そういう意味では国内市場だけではない、グローバルな展開に成功された企業だけが発展をしていくというか。もしくは老舗店みたいに、小さくてもこじんまり生きるか、どっちかだと思います。

いや、ほんとそうですね。マーケットという言い方よりも、活動の領域を限定してしまうと、それだけ偏った製品をつくりがちになるし、また設計者であったり、利用者のニーズを知る機会も減っていきますね。だから出来るだけ広い文化や生活習慣が存在する場所から意見を聞くことから、また新た発想が生まれていくんですね。

そうやね。やっぱり歴史のある金物の良さを活かして、そこに新しさを取り入れていいと思うんだよね。日本で商品展開したそのままを売りに行っても、押し付けてもダメですね。工芸とか伝統を活かしながらやったら、受けると思うんだよね。

日本は高温多湿な風土であったことと、四季という気候変化が存在することから、自然変化にものづくりの技術がついていき進歩してきた。この技術が伝統技法を用いた工芸に残されていていることを僕たちは学びます。地域色の強い装飾や技法が存在するのは、このことから発祥されていますよね。これを例えば、北欧に持っていくと平均して寒い地区ですから、寒冷地用にリメイクするときに、その気候と風土を考慮した握り方、温度の伝わり方をリノベーションしていく、っていう勘が働きますね。

そう今の話から私が未だ若かった頃を想い出しました。北海道で納品したハンドルを触ると、指がくっついてしまう。当時は、北海道仕様というものをつくり、本州との気温の差を意識した仕上げ材で施していました。今はもうその仕上げの素材からの熱伝達率の高い仕上げ材はなくなり、意識しなくても良いものができるようになりましたが、当時は気候・風土に合わせた工夫が必要でしたね。そういう経験から建築は今でも、日本のものを海外へもっていく際、それなりに、土地の風土や気候なりにあったものを考えることは大切ですね。

そうですね。それができると、日本の技術は凄いことを証明でき、海外で認められることも、もちろんありますが、僕はこの年になり、ようやく日本人の執着心みたいなものはすごいなって改めて感じていて、立野社長のような世代の方が、やっぱり大きくて深いものをもってらっしゃる。この思想のような哲学を、ちゃんと受け継いでいかないといけないない!なんて、ようやく45歳にもなって感じてきました。

いやいや、そんなことはないのですよ。もしかするとやっぱりね、若い日本人がもっと海外で活躍する気概が欲しい。昔はね、どこに行っても日本人が活躍していたけど、今はどこに行っても中国人と韓国人。

ほんとですね。

そういう面では、やっぱり今の若い人が恐れず行くんだ!という強い気持ちが欲しいね。

ユニオン造形文化財団がもたらしたもの

ユニオン造形財団での取り組みは、もう20年くらい継続をされているのですか。

そうね、22、23年目になるかな。

この取り組みをつくられたきっかけや意図などはありますか。

意図ねぇ・・・(笑)。いやいや、そんな崇高なものはないのですよ。

いやでも、20年以上も続けていることは、凄いことですよ。

あの当時ね、ちょうど日本の経済も悪くなる時代だったのですよ。

なるほど、悪くなるのに財団をつくられたのですね(笑)。

そう(笑)。悪くなる時は、やっぱり日本の若い人たちにチャンスを与えるべきじゃないかと、はじめました。

若い頃にサントリーの佐治敬三さんに伺ったことがあります。経済が上向きに差し掛かるときはもちろん儲けのチャンスですが、下向きになるときも、次の時代に残るためのチャンスだと言っておられました。

本当にそうだよ。やっていてよかった。

あの時代に海外助成をはじめられた理由が、何かあったのでしょうか。

単純に、国内だけよりも、海外も含めた助成をすることで、応募される若手支援の領域が広がるように考えていました。そして平沼さんも含めて当時みなさんは、今の若手より海外に出ておられたからね。学ぶにしても、研究するにも費用がかかるし、それを発表したくても、困る。だから手助けができれば、という気持ちがありました。

国内で設計をやられている方で、あの助成に応募されたり関われていない方たちがいるんじゃないのかな。僕みたいに幸運にも助成をいただけた方もいますし、上の世代の建築家たちは、審査に関わられた方たちも多くおられますよね。

そうやね。デザイン賞と研究助成に応募してくる総数が、毎年250名くらい。それでもデザイン賞が多いんですけどね。

それが23年ですものね。すごい!かなりの人たちが関わられたということになりますね。

ねえ、すごい・・・(笑)。そういうことをあらためて聞かされると、自分自身が嬉しいですね、トライしてもダメだったりするけど、何度も挑戦し続けることそのものが一流の方やったりね。

アハハ(笑)。いつになく立野社長の謙虚で敬意をもつようなお人柄が伺えます。アカデミックな世界の方たちは、あまり建材のメーカーさんを知らないですから、もしかするとユニオンという名前を知る入り口は、ユニオン造形財団かもしれないですね。

それはあるでしょうね。こんな中小企業の取り組みに、有名な建築家の方たちに参加していただくなんてね。これは先代もそうだし、ユニオンにこれまで勤めてもらった方、この方たちがものすごく努力をしてくれたからだと思います。普通だと、このくらいの会社に、誰も会ってくれることないですもん(笑)。いまだに考えられないことです。
もちろんこの財団があってのことが大きいのでしょう。うちの営業マンが、カタログ一つ持って行くと、建築家の方が、わざわざお会いしてくれる。他の建材メーカーだったらなかなか会ってくれないことをお聞きします。うちの先代がよく言ってたんですが、「ハンドルは建築の顔。一番初めに建物に触れる部分。」そういうものを結果としてつくっていたということと同じで、何か結果がわからないものに、取り組む姿勢が、結果としていいですよね。やり続けさせていただけたことに、ありがたいなと感じています。

僕は若い頃から知る、立野社長のすばらしいお人柄が、ユニオンをつくっていますね。他にそんな秘話のようなのありますか。

当時、先代と良く話していたのは、「TOTOさんの衛生機器につけられたロゴマーク」を知り、私たちのハンドルにも、ロゴマークを入れました。多くの種類をもつハンドルに、ユニオンマークがついていたら、私たち社員は責任を持ちますし、一般の方たちはもしかすると「ユニオンってどんな会社だろう?」と思ってもらえるのかもしれない。悪い製品をつくるとクレーム対象印になりますが、名前が出ることで責任を持とうとするでしょう。そしてもしかすると褒めてもらえたり、憧れを持ってもらえるかもしれない。

僕たちのような職業からすると、設計者:○○○○のような名前という、責任マークみたいなことですね。

国境を超えるコンセプチュアルなものづくりに、僕たちはワクワクする

海外にユニオンのハンドルを持って行かれた時に、どんな所の評価を高く受けたのでしょうか。そして今後のグローバルを意識した展開について聞かせてください。

海外へと出かけるようになって、もう何年になるのかな・・・?
私自身はね、昔、貿易をやっていたのですね。それはもう酷い英語でね・・・それはもう大阪弁英語です(笑)。

(笑)。いらっしゃいますよね、建築界では安藤さんのような方です。どこに行かれても大阪弁一本で、でもなぜか流暢に英語を話す方よりも、コミュニケーション能力が高い。

いやいや。私はそれほどでもなかったですよ。それはもう30年くらい昔の話ですが、当時から海外との貿易をやらないとあかんなぁと思っていました。企業は取り組んでいる以上やっぱり成長しないといけないと思います。少なくとも何%かが伸びると、社内も活気がでるし、新しいことにもチャレンジできる。

たいへんなことも多いですが、まずはやっている方たちが楽しくないといけませんし、それが物に伝わりますね。

そう、それなんです。
平沼さんから見て、私たちの商品って、もうひとつどこか足りないところがありますか。
商品的に海外の人を惹きつけるのに足りないとか、感じるようなところがあったら教えてください。

ああ~・・・(笑)。
でも僕、商品を売ることについては、全く素人でわからないことを前提に話します。

僕たち設計者は、「得体の知れない状態じゃだめ」だとよく言われます。「得体の知れなさ」をもつ建築の提案は、時には必要です。でもその提案をする者たちが、どこの誰だかわかる方が、すーっと、コンタクトしやすい。特に海外で提案を示す場合だと、ヨーロッパやアメリカでは移民が多いですし、提案者のルーツを示すようなことが必要です。せっかく東の果ての国から来るのだったら、「日本人」だということ、「日本製」だということをきちんと表現していくことは、必要だと感じています。

もうひとつは、多分、僕たちが日常の生活を繰り返している中で、何気なく普遍的に感じていて、気づかない日本的なことがたくさんあります。それは島国であるという地理的な意味も深く、ほぼ単一民族で生活をしてきたホスピタリティのような人間関係にヒントが隠れている気がします。安直に言ってしまうと「外国の方に違いを聞けば済む」なんて、思ってしまえばそれまでですが、歴史と文化的な連なりがわからず考えてしまうと本質がズレ、日本人の僕たちからすると「フフッ」と笑ってしまうような表現になりがちです。その上で恐らく、日本人でありユニオンという取り組みを一番良く知る立野社長のような方ご本人が、世界を周られている大きな理由のひとつに、世界からみた日本の価値を掴まれに行かれているように感じています。

日本の僕たちもそうですが、日本向けの市場に合わせた商品を海外メーカーにつくられるとちょっと、嫌になってしまう。それよりも、例えばドイツならこれだ!と、ドイツ製を使う価値をその国の文化スタイルを知らされ、価値をもたらせてほしいと願うのです。

グローバル化と聞かされ、もう20年近くの年月が経ちます。もう日本において、欧米の文化なのか、日本の文化なのか、今ではアジア文化なのかもしれませんし、それが融合していることであったりします。自分の身の回りを見つめなおして、身近なものに焦点のあったモノをつくり、「説明の順序をつくられたプロセスに合わせて示す」とそれが、海外の人が日本的なものに惹きつけられる大切な要素となるような気がします。

なるほど、製造のプロセス・・・そうやね。
それにはじめに言っておられた、日本的なブランディングを位置づけ、浸透させていくことやね。ホスピタリティを信頼感に変えた人というブランドでつくっていく。

そうですよね。

そういうものをもっときちんと根付かせていく。具体的な取り組みとして、それがひとつの既視的な手法でいうと展示会という形だったりするのでしょうね。そして、「建築についていく」という日ごろの活動をしていかないとなりませんね。これまでの活動の中で、日本で圧倒的に名前が知られたのが、東京オリンピックと大阪万博です。圧倒的に使ってもらえたのですが、それで信用を得ました。私たちの工業的な、産業もだけど、そういうきっかけになる取り組みを、もっと世界でやっていくということが必要かもしれんね。

そうですね。そういう理念のような自信のある企業は、展示会に既存商品を展示しないで、「これからの姿勢」のような、コンセプトモデルを持ってきていますね。

あぁ、そうやね。

これはモーターショウに、車のコンセプトモデルを持ってきているようなものですが、僕のような単純なタイプは、夢を語ってくれているような未来への可能性みたいなものに、「すごい企業じゃないか」と思わされて、やられちゃうんですよね(笑)。それはきっと、つくり手が楽しんでつくっている様子が伝わってくるような感覚に近いのです。でもそれが実際、日本に入ってくると、欧州の車だと昔は、そのままの状態で輸入されてきた。わかりやすい部分では、左ハンドルの車だった。だから僕たち島国で生活をする日本人は、この違いに、なんだか憧れのようなものを持ち、敬意さえも持ち始めた。

なるほど。

僕らの少年期は、ほんとに憧れました。でも、もちろん今のように日本の規制や高い安全基準に合わせようとされることがダメということではないんですが、この左ハンドルであったわかりやすいアイデンティティのようなものまでも、日本のマーケットをリサーチされて、マーケットに合わされたいろいろ付属された車という商品を売られても、日本車との違いという価値を生み出さなくて冷静になってしまい、興味を失っていきます。
本来ならこの部分は、日本中に走る車は同じという概念で均質にしないで、それぞれの個性を活かし、多様性をもってほしい。IT技術の進歩と物流・人の移動技術の発達でグローバル化がもたらせた結果、世界はもう既につながっているし、国と領土を競いあっている場合でもないですね。一国、一国の違いがあることが素晴らしいことです。主張し合う代表者がいることはいいですが、同時に認め合い敬意をもちあえるような価値をきちんと説明できる場が必要ですね。地球大統領というような(笑)、世界の代表者が「ひとつの地球」を守り進めていく組織をつくる時代なんていう活動も今後広がっていくと、工業や産業のあらたな固有の発達に期待していまいます。

うん、うん。私たちは小さな会社ですが、そういう広がりのある意欲と情熱のようなもので、挑戦してみたいと思います。

(終了のお知らせ)

ありがとうございました。

企画:宮本 尚幸、桑野 敬伍
撮影:宮西 範直
取材・文:池上 容子

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